ダーク ピアニスト
〜練習曲10 さざなみ

Part 3 / 3


 そこにいたのは十四人。あろうことか法律事務所をドイツでの拠点の一つとしていた。当然その事務所の持ち主である男は弁護士であり、『レッドウルフ』絡みの事件の顧問をしていた。
「グーテンターク!」
ルビーはいきなり入って来て事務所の中を歩き回るとそこにいる全員を確認した。知った顔はいなかったが、雰囲気でわかる。彼は、心の中で人数を数えた。
「何だね? 君は。用事があるならアポイントを取りたまえ」
髭を生やした威厳のありそうな中年男が言った。
「ここ、確か赤い狼さんのおおうちだよね? 僕、狼さんちに遊びに来たんだ」
「何?」
髭の男が訊き返す。

「おい、あいつは確か……」
脇の男がそいつを突く。
「ルビー ラズレインか?」
「僕のこと知ってるってことは、やっぱりここ狼さんちでよかったんだね。僕、てっきり道を間違えちゃったかと思って不安だったんだ」
「ほう。自ら飛び込んで来るとはいい度胸だ 褒めてやろう」
「え? 褒めてくれるの? ありがとう。僕ね、褒められるの大好きなんだ。それで、何のご褒美くれる?」
とニコニコと笑う。
「そうだな。特性の鉛の弾なんてどうだい?」
「鉛はだめさ。中毒を起こすからね。あのベートーヴェンでさえ、ほんとは鉛中毒で死んだんじゃないかって説もあるくらいなんだよ」
「ほう。なら、火薬球ならどうだい? 君は聞くところによれば日本の血が混じっているそうじゃないか。仕掛け花火はお得意なんだろう?」
「残念だけど、僕はまだ日本の花火ってテレビでしか見た事がないんだ。でも、ビー玉なら持ってるんだよ。ほら、これは普通のだけど、とてもきれいだからおじさん達にはもったいないけどね」
とポケットから出したそれをかざす。蛍光灯が反射して男の顔が逆さまに映る。
「あーあ。これ、もう汚くなっちゃったからいらないや。ハイ。おじちゃんにあげる」
ルビーが無造作に投げたビー玉は男の顔の直前で爆発したように砕け、細かく散ったガラスが男の顔を赤く染めた。

「貴様っ!」
周囲の男達が色めき立ったが、ルビーは動じず、持って来た大きな鞄から何かを取り出す。
「あんた達が打ち上げた花火のせいでいらなくなっちゃったんだ。代わりにもらってよ」
と哺乳瓶を差し出す。
「ふざけるな!」
男達が拳銃を抜き、撃って来たが、ルビーは平気で笑っている。
「それに、これも……」
足元に置かれた物に目を移し、それから、もう一度男達を見て微笑んだ。
「僕ねえ、赤ちゃんが欲しかったんだ。でも、あれは、僕の物じゃないから仕方ないんだって……。でも、どうしても欲しいんだ。赤ちゃん……。だから、ねえ、おじちゃんが赤ちゃんになってよ。だって、おじちゃん達が僕の赤ちゃん殺しちゃったんだから、今度は、おじちゃん達が僕のベビードールになってくれるよね?」
そう言ってルビーはクククと笑った。
「ふ、ふざけるな! この化け物め!」
撃っても撃っても当たらない弾の中を笑いながら近づいて来るルビーに、皆、恐怖を感じていた。
「さあ、おいで。僕の可愛い赤ちゃん達……」


 テレビのニュースが事件を報じる。
「今夜、銃声がしたとの通報を受け、警察が駆けつけたところ、法律事務所の室内で男性十四人の死体が発見されました。男性達は、皆、何故か裸で紙おむつ姿をしており、口には哺乳瓶を加えていたということです。また、男性達の身体と部屋の中一面には、トマトジュースとケチャップでらくがきしたような跡があったということです。死因はビー玉を喉に詰まらせての窒息死が6人、残りの者達も皆、何らかの物を喉に詰まらせたことによる窒息が原因と思われます。彼らは、密室で危険なプレイの最中、何らかの事故、もしくは犯罪に巻き込まれた模様です」
それから、中継が入り、オーバーなデフォルメのもと、事件はセンセーショナルに報道された。

「くだらないね」
ルビーはバチッとテレビのスイッチを切った。
「本当にくだらない……」
そう言ってテーブルに伏した。
(いつになっても終わらないゲーム……)
「ウンザリだ……」
ルビーはバンッと両手の平でテーブルを叩くと勢いよく立ち上がった。
「全くだな」
丁度今、部屋に入って来たギルフォートが呟く。

「こんな事、僕はもういやだよ。僕のせいで全く関係のない人が死んでいく……。その犯人を殺しても、また、誰かが殺される。終わりにしたくて、こんな事しても、何も変わらないし、終わらない。そして、殺された者も還って来ない……。こんな事、いつまで続くの?」
「『レッドウルフ』が滅びるか、おまえが死ぬかするまでは続くだろうな」
「僕が……? 僕が死ねば、いいの? そうしたら、誰も泣かない夜が来る?」
「いいや。ターゲットがまた別の者に移るだけさ。この世界が終わらない限り、理不尽な殺人は起きるだろうよ」
「なら、『レッドウルフ』を滅ぼせばいい」
「そうしたら、また、第二、第三の『レッドウルフ』が出て来る」
「それじゃ、まったくキリがないじゃないか!」
「そうだ。だからおれ達、闇の殺し屋がいる」
「そして、無限に人を殺し続けるの?」
「そうだ」
「悲しいね……」
「そうだな……」
「それに、空しい……」
「ああ……」
沈黙の中、やさしい声の鳥が窓の外で鳴いている。

「誰かを愛しちゃいけないの?」
「……」
「愛してしまったら、その人を不幸にする?」
「それは……おまえの心掛け次第さ……」
「心掛け……?」
「おまえには力がある。その力でその人を守ってやれるのなら……」
ルビーは俯き、返事をしなかった。守ってやれなかった命を思って彼は泣いた。ギルフォートもまた、静かに窓の外を見つめている。
「ねえ、僕達は正義の為に戦っていると言ったね?」
「ああ……」
「なら、どうして、僕達はアニメの中のヒーローみたいになれないの?」
「それは……生きてる世界が違うから……」
「何故? 彼らはヒーローで、僕達は犯罪者なの?」
「ルビー……」
「僕、知ってるんだ。『グルド』が、本当は国際犯罪組織で、国際警察からマークされている悪い人達なんだって……」
「ルビー!」
「調べたんだ。インターネットって便利だよね。知りたい事、何でも教えてくれる……そして、知りたくない事も……」
「だが、インターネットは嘘つきだ」

「え?」
「あれは、個人が思い思いの考えでロクな裏付けもなく発進することが出来るため、情報は錯綜し、常に混乱している。その中から自分にとって必要な情報を集め、真実が何なのか見極めなければならない。おまえには、まだ、その能力が不足している」
「それじゃあ、ギルは、僕が間違っていると言うの?」
彼は静かに首を横に振った。
「いいや。だが、それが『グルド』の本質ではない。それが全ての情報じゃないんだ。その証拠に、おれ達が堂々と街を歩いていても警察は逮捕しないだろう?」
「うん」
「けれど、おれ達は白じゃない。そうだろう?」
「うん」
「そういう事だ」
「それじゃ、やっぱり、僕達はいい事をしてるの? 『グルド』は正義の人々なの?」
「それは、これから、おまえがもっとたくさんの事を勉強して判断する事だ」

「ギルは? どう思ってるの?」
「おれは……こういう組織は、社会にとって必要だと思ってる」
「そうだね……。そうかもしれないね……。でも、僕……。僕、本当は、ピアニストになりたかったんだ。こんな裏の世界じゃなく、ステージで弾く普通のピアニストに……! いくら高い演奏量をもらっても、たくさんの賛辞や褒め言葉をもらっても、所詮は闇……。誰も僕の存在を認めてくれない。誰も僕の本当をわかってくれなくて、誰も僕を愛してくれやしないんだ! ここから、闇の世界から出ない限り、僕の本当はない……!」
「無理だな」
「何故?」
「一度闇へ足を踏み入れたら、二度と脱出など出来ない。それが掟だ、諦めろ」
「それで、ギルは平気なの?」
「おれには、守るべきものが何もないから……」
「僕達、ずっと一生このままなの?」
「……」
「殺しても殺しても悪い人間は出て来るし、『レッドウルフ』はいやがらせで人を殺すし、僕はずっと捕らえられたまま、夢の人にも会えないし、陽の当たるホールでコンサートを開く事もない、大切なものは奪われて、何もかもが壊れてく……いつか壊れて、部品も何もなくなってしまう……僕が僕でなくなってしまう……そんな風に……そんな風に……!」
「ルビー……」
ギルフォートはそっとテーブルに伏した彼の頭に触れようとして、しかし、その手を寸前で止めた。

「僕、もう寝るよ。頭が痛いんだ」
「ああ」
黙って出て行くルビーをギルフォートもまた黙って見送る。
そのドアが閉まるのと同時に携帯が鳴った。エスタレーゼからだ。
「ルビーは頭痛がすると言ってベッドに行った。ああ。他には何も問題はない。警察もマスコミもそれ以上の情報はない。……ああ。ルビーは、ここのところ、ずっとそうだ。わかっている。ありがとう。おれは大丈夫だ。……ああ。そうだね。考えておくよ。じゃ」
彼女もルビーの事を心配していた。彼が、このところずっと情緒不安定だからだ。が、それも無理もない。彼は、ずっと『レッドウルフ』から狙われている。ルビー自身のみでなく、彼に関わった者を次々と抹殺して行くという卑劣な方法で心理的に追い詰められていた。元はといえば、ギルフォートの仕事が発端であり、その仕事を命じたのは、他でもないジェラードだった。だが、当のジェラードはこの件に関しては、まるで匙を投げた状態だ。確かに、このままでは、ルビーの神経が持たないかもしれない。何とか手立てを考えなければとギルフォートも試案していた。


 空には陰鬱な雲が垂れ込めていた。平和な日は何日も続かない。突然、部屋に備え付けてある電話が鳴った。
――「ルビーか?」
「はい。僕、ルビーです」
怪訝に思いながらも彼は応えた。聞き覚えのない声だった。
――「これから、おれの言う事を黙って聞け。でないと、今度は、エスタレーゼが死ぬ事になるぞ」
「何?」
緊張が走った。そっと受話器を押さえて周囲を見回す。が、特に変わった様子はない。
――「いやなら、おれの命令に従え」
男の声が威圧的に命じる。
「おまえは誰だ?」
ルビーが低く抑えた声で問う。
――「聞こえなかったのか? それとも、バカなお人形には言葉も通じないのかな?」
「くっ……!」
ルビーは感情を押さえて、受話器を強く握り締めた。
「わかったよ。それで? おまえの条件は何だ? 何が欲しい?」
――「おまえの命……と言いたいところだが、元々人形に命なんてものは存在しないのだろうから、別の楽しみ方をさせてもらうよ」
と言うと電話口の男はヒャッヒャッヒャッといやらしい声で笑った。

「何をする気だ?」
――「おまえは、何もしない事だ。でないと、本当に彼女を殺す」
「出来ないよ。彼女には護衛が付いてる。それに、彼女は……」
――「何人護衛が付いていようと関係ない。そして、たとえ、彼女がジェラードの娘であろうとね」
「僕に恨みがあるなら、直接僕にすればいいだろう? 彼女には関係ない!」
――「おや、約束が守れないようだね? それでは、彼女を守る事も出来ないね」
「どうしたらいいんだ?」
ルビーはキュッと唇を噛んで言った。
――「そうだな。どうせなら、君にも制裁を加えたいな。このところ、随分ご活躍だったからね。時間と場所は後で指定する。言っておくがね、もし、この事を誰かにしゃべれば、それでゲームオーバー、彼女の命はない。たとえ、それがギルフォートでも、ジェラードであったとしても、阻止することは出来ない。わかるだろう?」

「『レッドウルフ』なのか?」
――「フフフ。どうかな? おまえやギルフォートやジェラードに恨みを持っている者など掃いて捨てる程いるさ」
「なら、『グルド』なのか?」
――「さあな。だが、一人でないのは確かだ。たとえ、おれを殺しても仲間は次々とやって来る。中には飢えた奴もいるからね。彼女はジェラードの娘にしては別嬪だ。さぞかし、男達を楽しませてくれるだろうよ」
「貴様っ! エレーゼに手を出したら、ただで済むと思うなよ!」
ルビーは受話器に向かって叫んだが、男は通話口で笑い転げた。
「ハハハ。それは、おまえ次第さ。言ったろう? 約束が守れないなら罰を与える。それだけの事。それでいいよね? ギルフォートの健気なお人形ちゃん」
そう言って男はまた笑い出した。癇に障るいやな声だ。そして、そのまま通話はプツッと切れた。

「くそっ!」
ルビーは不機嫌そうにガチャンと受話器を乱暴に置いた。そして、そのまますぐに部屋を飛び出して通りすがりに掃除していた使用人に訊いた。
「エレーゼは何処?」
「ああ。お嬢様なら、お友達と映画に行かれると一時間程前に家を出ましたけど……」
「ありがとう」
とルビーは言うと急いで携帯電話を取り出した。電話帳に登録された彼女のマークをプッシュする。文字の読めないルビーにもわかるように必要な事はすべて絵文字やマークで表している。それも、彼女のアイデアだった。
「エレーゼ……」
呼び出し音は何度もしているのに、遂に彼女は出なかった。そして、メッセージセンターへと繋がった時、彼は電話を切った。そして、急いで戻るとさっきの使用人に訊いた。
「それで、彼女は何処に行くって言ってた?」
「場所は特に伺ってませんけど、多分いつものオリンポス館じゃないんですか?」
「そうだね。ありがと」
ルビーはその場を駆け出して外へ出た。

 雨が降っていた。しかし、彼は傘もささずに出て行った。今は、雨に濡れると風邪を引くからとうるさく言う者達もいない。そして、通りまで出た時だった。スッと一台の車が彼の前に来て止まった。
「何処へ行くんだい?」
静かにウインドウが開いて男が声を掛けて来た。中には数人の男が乗車している。怪訝そうにしているルビーの前に男は携帯電話の映像をチラつかせて言った。そこには、エスタレーゼの姿が映っていた。そこが何処かわからないが、数人の男達と何やら会話している。
「エレーゼ……!」
ルビーが何か言う前に男が言った。
「彼女は無事だ。ごらんのようにな。だが、ここから先はわからない。おまえの返事次第でね。さあ、我々といっしょに来てもらおうか? お人形ちゃん」

ドアが開いて大柄な男が彼を連れ込もうとした。が、咄嗟にそれを払い除けた彼に助手席の男が言った。
「おや。いいのかな? 今、私がこのボタンを押すとね、ゴーサインとなって彼女を好きにしてもいいという合図になるんだけど……」
とニヤニヤと言った。
「彼女には絶対に手を出さないんだね?」
キッと睨んでルビーが言った。
「ああ。約束する」
「わかった」
と言ってルビーは車に乗り込んだ。男達の言う事が、単なる脅しでない事はわかっている。ならば、今は従うしかない。


 そして、夜になり、雨はいよいよ本降りとなっていた。なのに、ルビーはまだ戻らない。
「仕方のない子ね。また、何処かで迷子になってるのかしら? おまえ達、悪いけどルビーを探しに行ってちょうだい」
エスタレーゼがそう使用人達に命令し、彼らが玄関を出ようとした時、ずぶ濡れのルビーが帰って来た。
「ルビー、こんなに遅くまで何処に行ってたの? 今、探しに出るところだったのよ」
と彼女が言っても、ルビーは視線を逸らすと素っ気無くそこを通り過ぎようとした。
「待ちなさい」
エスタレーゼが捕まえようと手を伸ばしたが、軽く払い除けて彼は言った。
「疲れてるんだ。もう眠りたい」
と彼はさっさと自分の部屋に向かって歩き出す。
「ちょっと、ルビー! だめよ。そのままにしたら風邪を引いてしまうわ。すぐにタオルを持って来るから……」

ドアノブに手を掛けたところで彼は振り向き微かに微笑んで言った。
「もう、僕はそんなに子供じゃないよ。自分の管理くらい自分で出来る」
「でも……」
心配そうな彼女にルビーは付け足すように言った。
「エレーゼこそ気をつけて。君を傷つけようとしている人間がいる。だから、どうか一人では出歩かないで。それと怪しい人には近づかないで……」
「どうしたの? 急に……? わたしは大丈夫よ。狙われるのなんて慣れてるわ。だって、わたしは、ジェラードの娘なんですもの。産まれた時からずっとそうだったの。護衛も付いてるし……だから、大丈夫」
「そうだね……」
と寂し気にルビーは言って、バタンと扉を閉めた。

 そして、彼は濡れた靴や服を全て脱ぎ捨て、シャワーを浴びた。いつもより温い温度に設定したのに、まるで鋭利な刃物で切られたような痛みが彼の思考を麻痺させた。勢いよく流れる水の中に彼の体内から流れ出た温もりが混じる。足元に落ちたそれがバスタブの底を赤く染め、ぼんやりとそれを見つめる瞳の奥からも溢れて止まらない熱い想いが水に溶けて流れて行った……。足元に広がる小さな波紋……。それは、まるで漣のようだとルビーは思った。淡いピンクの小さなそれは、彼に微かな記憶を思い起こさせた。

――こいのぼり?
――そうよ。日本では、男の子の成長を願って空に泳がせるの
――空に?
――そうよ。お父さん鯉とお母さん鯉と可愛い赤ちゃんの鯉よ

母の笑顔とそのやさしい手で作ってくれた小さな画用紙の鯉……その赤い鱗の模様に似ていると思ったのだ。
(母様……!)

――本当は、もっとずっと大きいのよ。でも、小さくても願いはいっしょ。ルートビッヒ、あなたが、この先もずっと元気で幸せな人生を歩んで行けますように……

「母様……」
握ったその手で涙を拭いた。が、その手にも足元にも、後から後から落ちて来る水滴が半円の赤い鱗を形作って行く……。
「……僕はどうしたらいいの? 母様……。一体、どうしたら……?」
いつもより、ずっと長い時間、シャワーは流れっ放しになっていた。が、その音は外の雨と呼応して、誰も気に止める者はいなかった。


 次の日。ルビーは普通に起きて来て朝食をとった。が、その日は一日家にいてずっとピアノを弾いていた。咽せ返るような花の群れの中で……。

「あの、お嬢様。ルビー坊ちゃんは、怪我でもされたんですかね? シーツとバスローブに血が付いていたんですけど……」
使用人の一人がエスタレーゼに訊いた。
「え? 何も聞いていないけど……。夕べから何だか様子が変だし、そのせいかしら?」
と彼女も首を傾げた。
「ルビー? あなた、何処か怪我でもしてるの? バネットがシーツとかに血が付いていたって言っていたけど……」
エスタレーゼが訊いても彼は振り向かず、鍵盤に手を乗せたまま黙っていた。
「ルビー……?」
「何でもないよ。ちょっと転んだだけ……。それより、ねえ、もっと花を切って来てくれない? この部屋をもっと花でいっぱいにするんだ」
「いいけど……。もう、飾るスペースなんかないじゃない」
「いっぱいにするんだよ。もっともっといっぱいに……。僕の目はもう美しいものしか映したくない! 美しい花だけしか……せめて、ピアノを弾いてる時だけは……」
「わかったわ……」
エスタレーゼは部屋を出た。間もなく聞こえて来たピアノは調律が狂っていた。いつもなら、うるさく文句をつける彼が、その日は何故かそのまま弾き続けている。

 そして、午後、ギルフォートが来た。
「来い。仕事だ」
「はい」
彼に呼ばれると、ルビーは反射的にピアノの椅子から立つと彼の後に付いて行った。そんな彼の後ろ姿を見送る彼女の心に漠然とした不安が過ぎった。
「ルビー……」

 「それで、おまえは、私にどうしろと言うのだね?」
ゆったりとしたソファーに座って葉巻きをくゆらせていたジェラードが訊いた。
「このままでは、ルビーが壊れてしまうわ。彼は、元々、こういう仕事には向いていなかったのよ。やさしくて、繊細なあの子には……」
エスタレーゼが父親を説得するように言った。
「それで? おまえは私にどうしろと言うんだね?」
「ルビーを、あの子を解放してあげて欲しいの」
「解放?」
ジェラードは笑い出した。
「何を言い出すのかと思えば……」
「ねえ、お父様、お願いよ。ルビーはもう充分、組織の為に役に立ってくれたわ。だから、もういいでしょう? 彼を自由にしてあげて。彼は、ピアニストとしての才能を世に出すべきよ。その才能をこんなところに埋もれさせたままでいい筈がない。これ以上、彼を傷つけないで……」
「愛しているのかね? 彼を」
「そうよ。だから……」
「だからこそ、おまえが彼のパートナーとなって支えてやればいい」
「お父様……」
「彼は、『グルド』にとって必要な人材だ。手放す訳には行かないんだ。それに、彼はいろいろと知りすぎているからね」
「でも、約束させればいいわ。誰にも言わないって……。それに、あの子の言う事を全て額面通りに受け取る人なんて限られてると思うわ」

「エスタレーゼ……」
ジェラードは葉巻を置いて娘を見た。
「いい子だから私の言う事を聞くんだ。このままでは、ルビーにとってもおまえにとってもよくない事が起きる。私にとって大事なのは組織だ。一個人の才能や人格ではない。組織にとってルビーは有用な人物だ。手放す訳には行かない」
「でも、そのパーソナリティーが壊れるような事になっては元も子もないでしょう?」
「そう簡単に壊れはしないさ。おまえやギルフォートがいるからね。それに、もし、必要なら彼がもっと快く仕事が出来る環境を整えよう。多分、あの子は私の言う事を聞いてくれるだろう。従順に、そして、彼の意思として……」
風が吹いていた。ジェラードの後ろの窓に映る空にたなびく雲は鱗状に広がって、巨大な海に呑み込まれ、砕け散った漣のように見えた。その小さな波の中にあの小さな赤ん坊の姿が見えたような気がして、思わず彼女は目を閉じた。

――儚い命の営みの果てにあるものを、おれは見たいんだ……

(ギル……)

――奪って来た命の数だけ、おれは、おれのやり方で償いをする……。不幸にしてしまったその分だけ何かを与え続けて行く……。僅か点にも満たない小さな幸福を与えてやる事が出来るなら……

(それで、いいの? ギルは? あなたの幸福は何処にあるの?)
エスタレーゼは、そっと中指にはめた指輪の石に触れた。

――小さなダイヤとエメラルドのそれに……。
――よかったら、君に……。ルビーの買い物に付き合わされて……、その、贈る相手のいない指輪を買ってしまったんだ。サイズが合わないかもしれないが、もし、君が気に入ったなら、左手に……

(不器用な人……)

――しがらみから抜け出す事が出来ないんだ……。恐らく一生……。だから……
――だから……

エルベ川の岸辺から見た草原の風……。そして、波間に浮かぶ泡のような時間……。しかし、それは、もはや小波とは言えぬ、大きな運命の波となって押し寄せて来る始まりに過ぎなかった。

Fin.